「これが日本一の特別養護老人ホームだ」:1



 ◆提言1◆    社会福祉法人きらくえん 理事長 市川 禮子 氏

 

 当法人の沿革は、資料にも書いてあるのですが、1980年に訪問入浴サービスを開始して、その実績が認められたことで、1983年にきらくえんを設立しました。当時尼崎市は人口50万人でした。そんなに人口が多い尼崎市でも、83年にはまだ特別養護老人ホームがなかったのです。住民の建設運動が起こったことが、特養設立の発端でした。
 小さな施設で職員数は600名あまりでしたが、兵庫県下において最大あわせて約180の事業を行いました。

 この施設を設立するにあたり、理念を決めようと思いました。常に職員がそこへ立ち返って考えることができる理念を、ノーマライゼーションと決めました。それをさらに「地域の中で一人の生活者としての暮らしを築く」と私たちは訳しました。
 昨年四月に介護保険の大きな改定がありましたが、そこに地域包括支援や特養のユニットケア推奨などという言葉がでてきました。それを見て、私どもは83年からいち早く、現在に通じる介護のあり方を目指し続けてきたのだなと感慨深く感じました。
 このノーマライゼーションは、デンマークのバンク・ミケルセンが提唱したものです。彼は第二次世界大戦において、ドイツの強制収容所に連れて行かれました。そして戦後、デンマークの雑居部屋を見たとき、その収容所とまったく同じだったことに衝撃を受けたのです。どんなに重い障害を持つ人でも、私たちと同じような生活が保証されなければならないと言ったそうです。

 日本でも、私が老人ホームを設立する際に様々な施設を訪れた時、いかに認知症の人々がひどいケアをされているのかを目の当たりにいたしました。80年も90年も生きてきて、あげくGNP世界第二位の国で、こんな死に方をしなければならないのかということに、怒りを感じました。また、人を縛ったり、鍵をかけるのは人権を侵害しているのではないかと感じ、私共の施設では高齢者の人権を守ると誓ったのです。当時は措置の時代で、社会福祉法人でしたから、地域の社会資源として地域の人達に喜んでいただき、一緒に運営していくという形として、民主的運営を定めました。これは職員のためのものでもあります。
 自分の人権が守られずして、他人の人権は守れないのです。
 また、民主的に運営していくこと。会議で様々な意見が出され、それがとりあげられていく、働きがいのある運営をしたいと思いました。
 この理念や方針を、実際に現場でどのように実践していくかを話し合いました。ざんねんながら、きらくえんも最初の施設は雑居中心の特養でした。そこで人間の尊厳を守ることと、プライバシーを守ることを徹底すること、市民的自由と、社会参加の自由で、それを補おうと考えたのです。

 さて、人間の尊厳を守る為に何をしたか。まず最初に気をつけたのが、言葉遣いでした。人間は言葉によって意志の疎通を図ります。それゆえに言葉によって傷つけられ、言葉によってがんばろうという気持ちにもなるのです。そこで私達は、入居者が「自己決定」を行える言葉遣いを大切にしております。決して命令系の言葉を使わない。「しなさい」「やりなさい」という指示をしてはいけないのです。そして認知症の方に、赤ちゃん言葉を使わないこと。
「お風呂に入ってください」ではなく「お風呂に入られますか?」もしくは「お風呂に入っていただけますか?」と語りかけます。すると、入居者さんも「すぐ入る」「後でいいわ」と自己決定ができるのです。

 私たちは6年間、徹底した言い直し運動を行いました。
 プライバシーについては、排せつ介助を絶対人に見せないようにしました。あとはおむつ交換をする時にも、右利きの人は左手で局部をカバーし、直接目視するような状態にならないよう気を使っております。

 そして家具の持ち込みを、当初から推進していました。また、個人の電話も引いていただいておりました。家族会を作り、一緒に運営もしてきました。

 しかしある日、気づいたのです。いくら施設の中が自由でも、人間というのは社会を形成する動物ですから、社会参加ができなければ、地域で生活しているとはいえないのです。そこで近所の老人会や市民会に加えてもらい、またその会の方々が施設に出入りしたりと、相互交流ができるようにしてきました。

 そして「認知症高齢者にもノーマライゼーションを」という合言葉を提唱し、認知症の高齢者の方にもどんどん外へ出かけていただきました。外食や一泊旅行、ふるさと訪問なども行いました。宿泊をかねて四国九州への旅行もありました。また、近場の居酒屋へみんなででかけることもあります。また、居酒屋に飲みに着ていた人達も、認知症の人たちと一緒に歌ったりおしゃべりをしたりしました。

 徘徊をしても、地域の人達がみんな顔を知っていますので「今、でてはったよ」と教えてくれるようになりました。
 特にふるさと訪問を行いますと、その方のあゆんできた人生についてお友達や親族の方にうかがう機会ができます。すると、どの方も山あり谷ありの80年間を送ってこられているということがわかり、それが職員の心に響いてくるのです。
 また川柳クラブがあるのですが、そちらでも認知症の方が恋の歌なども、どんどん作られます「涼風に 揺られて恋の 夢に追う」など素晴しい詠歌を作られるのです。
 このように私達職員は、入居者さんの人生について思いを馳せるということを、心に刻むことが必要です。

 もう一つの柱「民主的運営」についてなのですが、職員もこれらの理念に沿って活動していただくことを大事にしてもらっています。職員もセクション内における仕事に全力を傾けています。しかしセクションを超えた協力体制が整っていないと、日本の福祉現場というのは職員の配置基準が低いので、何かあったときに対応できなくなります。
 また、入居者の自治会があり、これは認知症グループホームでも設置しています。また家族会も稼動しています。入居者の家族会とショート利用者の家族会、亡くなった方のOB家族会の三つです。そして私達が入居者の方と出かけるときなど、ボランティアの方はもちろん、ご家族にもできるだけ参加していただきます。家族やボランティア等、地域の方々の協力を得て、本来職員だけではできないようなことを実現することができるようになりました。
 さらに、十五団体二万人の地域福祉推進協議会というのがあり、今年から地域盆栽について活動を始めています。
 このように施設の社会化というのは、ボランティアに来てもらうことだけではないと感じました。我々が地域の諸課題に目を向け、矛盾を地域の方々と一緒になって解決していくことで、初めて地域の人達が、施設について理解を深めてくれるのだと思うのです。
 さて、私共は二つ目の施設を、いくの町という場所につくりました。10年前のことになります。このとき今の個室ユニットケアをしたかったのですが、行政にも私共の役員会にも反対されました。当時は個室やユニットごとにケアをしていくという発想はなく、寂しがるとか、危険だという意見が大勢を占めていました。実際に、純粋な個室化はできなかったので、四人部屋を引き戸で仕切るような形にしました。

 ここで大事な事は、個室化することで、確実に入所者さんの自立への意識が高まったということです。認知症の方が雑居部屋にいるときのように、他の人に怒られるということがなくなったので、落ち着いて生活できるようになった方が多くいらっしゃいました。
 そして落ち着いて生活することによって、伝承されてきた昔ながらの盆踊りの歌を口ずさむようになりました。それを耳にした職員が、過疎化・高齢化で廃れてしまった盆踊りのことを思い出し、もう一度その歌を復元し、盆踊りを復活させたということもありました。

 その後に阪神淡路大震災に被災するのですが、ちょうどその頃、芦屋きらく苑を建設中でした。ほとんど出来上がっていた建物が、1メートル傾きました。結果的にはもうひとつ特養を作るほどの経費がかかり、二年間も計画は頓挫してしまいました。
 その間に、高齢者・障害者の被災者の方々が、避難所で暮していけないという問題が持ち上がりました。特にトイレなどの問題が急務でした。そこで私達はグループホームのような仮設住宅をつくってほしいと県に提案し、これが実現しました。いつでも一人になれるし、いつでも誰かに会えるという家です。すべて個室で、真ん中にリビングルームがあるのです。そこに高齢者と障害者の方が次々に入居されました。
 これがその後のユニットケアとか、地域の中にある良さというものを学ぶ機会を得たのです。

 ここで、そういう方々が3年2ヶ月後、復興公営住宅へ移っていかれました。特に高齢者の方々は、家を再建する体力がありません。そのため、現在約4万8千戸ある公営住宅の高齢化率が46%となっています。日本が25年後に到達するであろう高齢化率が体現されているのです。また独居高齢者所帯率は40.6%です。そして既に500人以上の方が、孤独死・自殺されています。
 そういう現実が、被災地では未だに続いているのです。

 そこで私達は24時間365日のケアをしております。尼崎と芦屋市で1402所帯をカバーしております。これから日本はこのような超高齢化社会になっていくのですが、先日厚生労働省が古い都市の真ん中に福祉施設を設立していくという発表をしておりました。このようにいくら在宅福祉サービスでヘルパーが訪問したとしても、ヘルパーが帰ってしまえば、独居の方は一人きりになってしまうのです。そういうところに、ボタンを押すといつでもすぐに誰かが飛んできてくれるというシステムがあると、独居の方に何かがあったときにカバーできるのです。
 こうして、たまたま被災地で始めた取組が、将来の高齢化に向けてのモデル的事業になったのです。

 そして震災から二年後に開設した「あしや喜楽苑」、ここのテーマが「福祉は文化」となっています。広い地域交流スペースがあり、ギャラリーがあったり、営業許可をとった喫茶店もあります。更には講演会や、ジャズ・クラシックのコンサート、オーケストラの演奏ができます。また先日は敬老の集いがありました。あしや喜楽苑だけで100歳以上の方が10人いらっしゃいまして、その方々のためにジャズコンサートを行い、たいへん喜ばれました。
 地域の自治会がボランティア活動をしてくださり、この活動の援助をしていただいております。実質会員260人の方がいらっしゃいます。ギャラリーも二週間交代で様々なジャンルの個展を開いております。年間1万5千人ほどの市民の方々が観覧に来てくださっています。
 そのようなことで、一箇月で延べ4千人があしや喜楽苑に足を運んでくださっております。

 このように、私達は「普通の生活」をしていただくことを目指して、こうした活動を展開してきましたが、その中で、ターミナルケアを生かしました。40日行なったターミナルケアの中、フォスターの曲が好きな方がいて、オールドブラック・ジョーの曲を口ずさんでいらっしゃいました。そこで職員がピアノやギターで伴奏を行いました。その方がなくなったとき、クリスチャンだったので教会でミサが行われました。その際に棺を囲んだ職員がオールドブラック・ジョーを歌ってお見送りしたのですが、家族の方が大変喜んでくださいました。
 また、93歳で入居された左肩マヒで息子の顔も忘れた重い認知症の方がいました。その方は大阪音大の先生だったんですが、右手だけがかろうじて動くような状態でした。私共のところの音楽療法士が、その右手をさすりながら長い時間をかけてピアノにいざない、とうとうあしや喜楽苑のルナホールで、ピアノコンサートを開いたのです。その後、コンサートを見て感動した市が、総務省に申請して表彰され、また奈良で大きなコンサートも開きました。
 息子の顔も忘れるほどに記憶が薄れながらも、右手だけで見事にショパンを三曲弾いたのです。

 そのようなことから、職員と私達は「介護の三大ケアというのは、ケアの一部である。残された日々を充実したものにすることも、ケアである」ということを学びました。
 重い認知症であっても、ターミナルを迎えた方であっても、輝いていた日々を思い出すことで、充実した毎日を過ごすことができるのです。
 介護度5であっても、気持ちが前向きになれば、生活に発展が望めるのです。

 さて、その後全個室ユニットケアにようやくたどりつくことができました。これももう始めてから7年の歳月が経過しております。
 やはりユニットケアというのは、自立へと向う気持ちをサポートしやすいと実感しました。最初からユニットケアのできる建物を建てたからよくなるわけではなく、ケアの基本はその方ごとの個別ケア、人生に思いをはせるケアです。今はユニットケアも沢山できて、いいところの他に、だめな点もいっぱい出てきています。だから全てが良いわけではないのですが、少なくともかつての集団ケアよりは、個々人について深く理解し寄り添うことが出来ます。

 しかし職員が本当に高齢者の心を理解できる感性がなければ、いくら傍にいて寄り添うケアをしようとしても、できないのです。さらに、いくらユニットケアを行っても、被介護者の人間の尊厳を守ること、なぜユニットケアをするのか、なぜ個別ケアを行うのかを理解していなければなりません。私達介護を行う者は黒子になって、被介護者が自分らしく生きる支援をしなければならないのです。
 それをしっかりと認識しながらケアを行うと、集団ケアよりもユニットの方がはるかにやりやすいはずなのです。そのため、建物がユニット用になっているからといって、職員の認識が変わらなければユニットケアはできないのです。

 ターミナルケアにも積極的に取り組んでおりまして、昨年NHKで当施設におけるターミナルケアの様子を放送していただきました。職員はターミナルケアこそ個別ケアだと言っております。
 ターミナルケアは何の為にするのか。家族のためであるということを、理由の中心におき、資料にて紹介しております。家族がよりよい別れの時を過ごせるよう支援するのです。そのため、日常の雑事から開放され、家族がターミナルケアに集中できるように体勢を整えます。また職員も、医療との連携を綿密にするだけではなく、その人らしい生き方を支援することを一番に考えています。その人らしい最後というのは、日頃のケアが充実していないと達成できないものです。急に病状が重くなり、会話もできないような状況になってから付け焼刃でターミナルケアを行おうとしてもできないのです。そのため日頃しっかりと交流しておき「あの時、ああ言っていたな」という記憶や記録があると、言葉を発せられない状態になっても「今こう思っているんだな」と推測することができるのです。

 そしてターミナルが終わった後、職員でお互いにケアカウンセリングを行うような形式でグループワークもしております。これにより次のターミナルへ生かせる事を見出し、また入居者さんの死に悲しみを覚える職員たちの心を癒しています。
 また葬式を行わなくても、最後のお見送りはどうしてもしてほしいと要望を受けることもあります。そのような時は、家族も職員も入居者も全員でお別れ会を行います。一人一人が花を手向け、全員で出棺をお見送りします。高齢の方々にとって、生活を共にした身近な人との別れはこの上なく辛い経験です。それだけに、さようなら、ありがとうと別れを告げる姿には、残された自分の時間と死について向き合おうとする姿勢を感じます。

 ターミナルケアは介護の原点に還る事であると感じます。この人は何を必要としているのだろうと相手を思い、人として職員が高齢者に向き合うからです。安楽な状態を維持する介護技術や痛みを和らげるための医療との連携も不可欠ですが、なによりも大切なのはどれだけ真剣に入居者の最期を完成させることに向き合うことではないかと思うのです。死というのはその人の人生の完成期なのです。だからこそ死までの日々を豊かに過ごすことの重要性に気づくことができれば、入居者の日々の援助を追及する実践へと繋がっていくのです。亡くなった高齢者は自らの死をもって関わる全ての人に生と死のありかたを示唆するのです。
 そのような思いで、けま喜楽苑ではターミナルケアを行っております。