2006年度第19回シンポジウム

「福祉の国デンマークの認知症ケア最前線」

 

 

 

 

「認知症高齢者の生活活動」

作業療法士   メッテ・ソノゴウド 氏
通訳 モモヨ・タチエダ・ヤーンセン 氏

Photo:メッテ・ソノゴウド 氏 講演風景

 私は作業療法士として勤務していたのですが、その中でも長く認知症介護に関わっていて、現在においては認知症コーディネーターの講師とフリーランスでコンサルタントという形で出向き、現場における職員教育と家族教育を行っております。
 私の担当はアクティビティーです。人間が沢山の情報を生活の中で生かしていけるのかということを主眼においています。
 人間は生まれながらに活動的に動く生き物です。常に自分にできることを探して動いているのです。それは認知症になっても変わることはありません。しかし現場に行くと職員の方々は忙しそうに働き、そこに喜びを見出しているのですが、認知症の方は得てして暇そうに座っている状況が時折見られます。
 そこでよく職員の方から聞く言葉が「ちょっとここに座りませんか?」というものです。
 認知症の方が歩いているとすぐに「座りませんか?」とついつい声を掛けてしまうのです。
 もちろん疲れている時に一休みして座るというのは大変良いことです。しかし皆さんも経験があるかと思いますが、長い時間座り続けていますと動きたくならないでしょうか。「さぁ、動かなくちゃ」と。その気持ちは認知症の人も同じです。ただし、動くのを止められた時に現われる行動は私達とは違い、怒り出して椅子を持ち上げてみたりすることもあるのです。

 時には自分のクローゼットや他人のクローゼットの前まで行って、洋服を出して、一生懸命丸めた上で、トイレに突っ込む行動に出るかもしれません。その行動を見た職員にありがちなのが「ああまたか」「またやっちゃったね」と問題としてそれを解釈してしまう事です。
 この時に私達職員に必要なのは「彼にはなんて沢山の資源が残っているんだろう」と考える視点です。「さぁ、動かなくちゃ」と思った事に対して、こんなに沢山のアクティビティを発揮できる資源が存在していると考えるのです。つまり何かをいじる人、物をぐちゃぐちゃにする人、部屋の模様替えをする人、彼らがそうして動く原因は「私はこんな事だってできるんだ」とアピールしているのだと理解することが大切なのです。
 さて、ある認知症の方がいたとします。ある時は落ち着いている状態でいます。窓際に座って外を眺めているかもしれません。しかし時間が移り変わると、混乱した状態に変化します。
「お母さんの所へ帰るのでドアを開けて下さい」
「帰らなきゃ」と言い出します。
また更に時が進むと、再び落ち着いて鼻歌を歌いながら座っています。しかしもっと時間が進むと、今度は「子供たちのところへ帰らなくちゃ。一人で留守番をしているから、早く帰ってやらないといけないんだ」と騒ぎ出します。
 一日の間にも、このように状態は刻々と移り変わって行くのです。
 これに対しての職員の行動を客観的に見てみますと、コンタクトをとるのは、行動を起こしている瞬間が多くなっていないでしょうか。問題行動が起こった時に「ここで何かアクションを起こさなくちゃ」と焦ってコンタクトをとるんです。
 けれど皆さんも経験があると思いますが、この時点でコミュニケーションを成立させるのはとても難しい事です。
 一方で落ち着いて座っている時というのは、コンタクトをとらずに通り過ぎてしまいがちです。しかしデンマークでアタッチメントを行うべきは、コンタクトを取って理解してもらえるこの落ち着いている時間であると考えられています。なぜなら落ち着いている状態の時には私達のコンタクトを理解してもらいやすいため、混乱状態に陥る時のための予防ができるのです。ここで何かの対処をしておけば、混乱状態を招くことのないようにできるのです。
 皆さんの職場でも、認知症の方で落ち着いている時間と混乱している時間のリズムが決まっている人、例えばいつもお昼時には落ち着いているような人がいるとしましょう。けれどお昼時にコンタクトをとっては遅いのです。もしコンタクトをとるのならお昼前に行うことが最善だと思います。
 今までこのグループホームでは「この流れやリズムで職務を果たしている」という枠があるのなら、そこから外れていく必要が出てきます。なぜならそこに住んでいる認知症の人々の生活リズムがそれぞれ異なっているため、一人一人に合わせなくてはならなくなるからです。
 例えば落ち着いた時にどういったアクティビティを行ったらいいのか。そこが私の講演内容の主軸となります。ここに認知症の方がいたとします。目の前に職員がいます。皆さんが働いている環境は様々だと思うので、二人が出会う場所も様々でしょう。例えばグループホームであったり、特養であったりします。その中では一緒に生活している利用者や他の職員がいます。そして訪問した家族などもいるでしょう。

 さらには、他の環境要因として椅子や机・コーヒーカップなどの物質も含まれます。つまり認知症の方を囲む今まで挙げた命あるもの、無生物などすべてが、彼等に影響を及ぼすのです。これは認知症の人に限ったことではなく、人間であれば誰でも周囲にある全てのものから刺激を受けているのです。
 その刺激は五感を伝わって私達の脳にインプットされていきます。
 脳はその情報をキャッチすると必要なものと不必要なものとに選別し、不必要な情報を次々と捨てていく機能を備えています。なぜなら、脳は全ての情報を蓄積することはできないからです。
 例えば私は、今そこの席に座っている方が鼻を掻いていたのが見えました。けれど、それは脳に情報として入ってきていても、今の講演には一切関係がありません。ですので、それは不必要な情報として私の記憶から削除していくのです。これはもちろん無意識に脳内で行っている作業です。
 皆さんも経験があると思いますが、今日は頭が疲れたなと思ったことはないでしょうか。私達の脳は、疲れているとこの情報を捨てていく機能が低下してしまいます。そしていろいろな情報が無造作に蓄積されていってしまいます。
 例えば今日のように長い時間講演を聞いたり、朝から晩まで休む間もなく仕事をした後で子供を迎えに行き、買い物をしてから家に帰ろうとしたとします。買い物をしている最中は、子供が自分のズボンをひっぱってお菓子をねだり、そのまま子供をひきずって歩いている頭上では、今日のお買い得商品についてのアナウンスがスピーカーからガンガン流れているのです。更には顔見知りの人がやってきて、スーパーのチラシを見せながら、
「これはどこの棚に行ったらあるのか分かる?」と尋ねてくる。
 そんな風に頭の中が一杯一杯になった時に出てくる典型的な行動とは、ズボンを引っ張っている子供に「ちょっとうるさいだまれ!」と怒鳴ることでしょう。自分の脳が疲れて一杯だよという反応行動がそういう形で現われるわけです。
 ここでのポイントは、私達が疲れた時に起こす反応こそが、認知症の脳の反応行動と同様であると考えられている事です。
 認知症の方が住んでいる場所の状況を思い描いて下さい。そこがグループホームだったとします。回りで沢山の人が話をしている傍で、ラジオが鳴っています。さらにはTVが付いている上、誰かが大声で叫びながらテーブルを叩いていたりします。その様にTVを見るときにラジオが鳴っていたり、話し声がしているなら、そのどれか一つでも減らすことができれば、入居者の方々が一つのアクティビティに集中できるのではないかという視点を、職員が持つことが大切なのです。
 幸運なことに、脳は全ての情報を捨てているわけではありません。残っている情報については解釈を加え、それを理解につなげようと働くのです。この情報は私にとってどんな意味があるのかを判断し、理解した上で必要なものだけ残していくのです。
 例えば、私が東京を散歩していたとします。外へ出ているので、車が道を走っていますし、自転車も走っています。そして私は自分の髪を揺らす風を感じています。このように様々な情報が一度に入ってきますので、私の脳の中では常に取捨選択が行われています。
 しかしここで、私にとって絶対に捨てられない情報が飛び込んできます。
 向い側から歩いてきた男性が、通り過ぎざまに私のお尻を叩いて行ったのです。この時、直接情報が入ってきた接点はお尻なんですが、脳も「何が起こったんだ?」と反応します。そして「お尻を男の人に叩かれたんだ」と次に状況を理解するのです。
 理解から「この人は一体どういうつもりで私のお尻を叩いたのだろう?」という思考が生まれます。そこから対話が発生します。ようするに、私は「なぜなんだろう」と自問自答するだけでは我慢ならなくなり、その本人に「何のつもりで私を叩いたのよ!」と言う行動に出るという事です。
 また一方で、私は対話をも飛ばして、思考から直接行動に出る可能性もあります。振り向きざまに相手の顔を叩いているかもしれません。
 さてどうしてこの例を出したかといいますと、デンマークでは職員が認知症の方に捨てられない情報を与えることによって、彼らの頭に解釈が浮かび、そして理解へ繋がり、思考が生まれるプロセスが誕生すること、これそのものをアクティビティと定義しているからです。
 更にそれが思考だけではなく、引き出された対話や付随する行動も、またアクティビティだとデンマークでは考えられているのです。ですので、私のアクティビティの定義は今までのアクティビティの定義よりも、ぐっと大きなものとして考えています。
 他の例を挙げましょう。
 ある特別養護老人ホームでの一日の出来事です。今日はホットケーキを焼くことにしました。もちろん、利用者である認知症の方に参加してほしいと思い、一人のお祖父さんに、
「どう? ホットケーキ焼いてみない?」と誘いをかけました。
 が、「今日はやりたくない」と断られてしまいました。近くにいたおばあさんにも、
「あなたはどう? 今日ホットケーキ焼いてみない?」と言いましたが、
「今日はもう疲れたからおやすみなさい」と言って立ち去ってしまいました。
 さて、そこで同僚と一緒に「なんだせっかく用意したのに誰も参加しないのか。なら車椅子の人でも呼んで来ようか」と言って車椅子の人を連れてきて、テーブルにつかせる。なんてことをやってしまっていませんか?
 正直に、胸に手をあてて答えてください。こういった経験がありませんか?
 アクティビティは参加者が多ければ多いほど成功だという方程式が、頭の中に出来ていませんか? デンマークでは、この誰が考えたのかもわからない固定観念からの逸脱を行います。時には一対一のアクティビティでもOKで、全員参加しなくてもOKと考えているのです。全員が参加したからといって成功とは限らないという認識が広がっています。
 さて、特養のお話に戻りましょう。仕方なく職員が一人でホットケーキを作ることにしました。小麦粉や卵にミルクを入れて、ちょうど隣にいたおばあさんに「混ぜることぐらいはできない? やってみて」と言いましたが「手が痛くなっちゃって今日はできないわ」と断られました。
 反対側にいたおばあちゃんに「どう、やってみない?」と誘っても「私はここで働いているわけでもないし、あなた達みたいに給料をもらってるわけでもないんだからやらないわ」という返事がかえってきました。
 そんな調子でみんなに断られ続けたので、やっぱり一人で焼くことになりました。けれども一枚目は大失敗してしまいます。ひっくり返そうとしたら、真ん中に穴が開いてしまったとしましょう。すると後ろにいた「手が痛い」と断ったおばあちゃんと「給料もらってないから」と断ったおばあちゃんが、二人で肩越しに失敗したパンケーキを覗き込んで言いました。
「ちょっとこれ見てよ、全然できてないわよ」
「あなたお母さんからちゃんと習ってなかったのね!」
 そこで私は頬を赤らめながら言い返します。
「だったら手伝ってくれても良かったじゃない。作るのには参加しなかったくせに、テーブルにお皿を並べる頃になると、貴方がたは寄ってくるのよね」
 さてここで問題です。
 わたしたち職員は、このアクティビティの結果についてどういう見方をするでしょうか。
 同僚同士で「よし、今日のはいいアクティビティだったね、また明日もやろう!」と話し合うのか「参加者が誰もいなくて、結局自分でやることになっちゃったね。最低のアクティビティだったね」という評価をするのか、どちらなのでしょうか。私達職員は、成功の基準を彼らが自分の手を動かしたのかというものに置いてしまいがちです。
 ここでのポイントなんですが、ホットケーキを焼くということをプロセスの中心に置いてみると、沢山のことが起こっているのです。おじいさんやおばあさん達は、彼らなりに何が起きているのかを理解し、思考が生まれ、対話を行っています。しかも食べるという行動も付随して行っているのです。
 そして最も大切なアクティビティというものが、満足感を味わう事です。
 チョコレートを口に入れた瞬間とろーりと溶けていき、おもわず「ん〜」と思わず声を漏らしてしまうような感覚と説明したら、ご理解いただけるでしょうか?
 これは口から入ってくるとは限りません。例えば鼻から入ってくる芝生の匂いや土の匂い。いいなと思った香りを嗅いだ時にもこの感覚が訪れます。嗅覚だけではなく、五感を使ったときにもこれは起こります。良い音楽を聴いたり、美しい物を見たり、マッサージを受けたり温泉に入った時など、自分にとって気持ちが良い瞬間のことなのです。
 私はこの間隔に注目しています。なぜならこの感覚は、言葉など必要なく理解でき、また他人と共有できるからです。デンマークでは重度の認知症の人の介護に、沢山この「満足感」や「快感」を感じるものを取り入れたアクティビティを行っています。
 例えば重度の認知症の方にカードを作っておきます。そのカードには各職員が、認知症の高齢者本人が「んん〜」と良いと感じた事を細かく書き込んでいくのです。そのカードを通じて職員同士が情報交換を行うことによって、介護の中に本人が満足感や快感を味わえるものを沢山取り入れることができるようになります。
 先ほど「落ち着いている状態」と「混乱している状態」についてお話しましたが、この「落ち着いた状態」の時にこのカードに書き込まれたものを使うことによって、予防を行い「混乱の状態」を避けるプランを立てていくことが大切です。

 

 

Back

Next